付喪神「美郷」
今から書くことは私の過去の話。勿論、黒船異変も起こっていない頃の話だ……。
今更紙に記しておくのも億劫だが、この記憶が薄れてしまわないように書き記しておこうと思う。
それにしても記憶というのは面倒である。
記録や事実であれば本能が勝手に辞書に書き記しておいてくれるのだが、記憶はこっちに残ったままである。
さて、本題へと移ろう。
私は元々一冊の辞書だった。今では発行日はおろか著者や本自体の名前も分からないが、書かれている内容は辞書である。
ふむ、こう考えると記録も完璧ではない。日々の手入れはやはり大事だな。
辞書の使命は知識を求める者に与えること。
私には知識を与えるべき最初の主「美郷」がいた。
私は主を「美郷」という文字でしか知らない。
今私が名乗っている「ミサト」という読みも正しいかどうかはわからない。
ただ、私の体に「美郷」という文字を書いた者、という情報だけが残っている。
しかし、いつからか私は全く使われなくなってしまった。
おそらく新しい辞書が来たのだろう。
発行日などが分からないのは「美郷」に雑に放置されたからなのだろう。
しかし、表裏を逆に置かれたおかげで「美郷」の文字は残っている。
そうやって朽ちていく中で私はとある感情を得た。
「嫉妬」である。
私は時代に置いて行かれた。ならば自分の力で時代に追いついて見せようではないか!
その「感情」が認められたのか、付喪神に私はなった。そして外の世界が見えるようになった。
しかし、外の世界に主はいなかった。
しばらくほぼ空っぽの家から知識を吸い上げていると、来客が二人。
「じゃあ遺品はこちらで整理させていただきます」
おそらく、「遺品整理士」だろう。
この世界では持ち主が亡くなった後、色々な物をしかるべきところに運搬、売却、廃棄する業者である。
つまり、主は亡くなっていた。
話を聞く限り亡くなった場所はここではないらしい。
その者は部屋の隅にあった私を持ち上げてこう言った。
「これは言霊の力を持っている。図書館に持っていけば館長が何とかしてくれるだろう。」
こうして私は図書館へと連れてこられた。
?「言霊の力を持つ辞書? 聞いたことが無いわね。しかも亡き風刺家の家にあるなんて……」
遺品整理士「そうなんですよ」
?「とりあえず、これは私の元で預からせてもらうわ」
?「さて、付喪神さん、話すことはできるかしら?」
私は何とか呼応しようと、主の口調を真似ながら話して見せた。
「やあどうも」
?「ちょっと話し方がひねくれてるわね。まるであの風刺家のよう」
?「さて、名前はあるかしら……擦り切れてる。どういう扱いしてたのか全く……いやこれは亡くなってからの劣化だけのようね」
?「……あなたに聞いてみるのも悪くないわね」
幸「私は言霊図書館館長、朽木与 幸。あなたは?」
「付喪神……ミサト」
幸「なるほどねぇ……」
少し困惑する幸さんの感情をまだこのころの私は知らなかった。
その後も私は幸さんと対話を重ね、図書館内の知識を吸い取っていくうちに人の体を得た。
その頃には私の「付喪神 美郷」としての意識や人格ができていたように感じられる。
ただ、幸さんは私のことを「美郷さん」と呼ぶことはなく、
図書館の業務を手伝っているときでも
幸さんは私のことを「付喪神さん」と呼び続ける。
むしろ、「美郷」と呼ぶのを避けているのかもしれない。
幸「そういえば、ワタシ、ワタシってなんか……あなたの口調的に「ボク」の方が似合ってるわよ。多分」
美郷「一人称を改めた方がいいのか……」
幸「そう、一人称って文章とか話し口とかで変えていい物だからね」
幸「さて、私も君に対する扱いを改めるときだと思うわ」
美郷「?」
幸「ちょっとね、この呼び名は避けていたのだけど、もう心配ないわ」
幸「あなたを最初に見たとき、ここまで言霊の力を使いこなせる人になるなんて思わなかったし、それ以外にも本当に驚いているわ」
幸「ねえ、美郷さん」
美郷「ええ、どういたしまして、幸さん」
最初の私の「嫉妬」は勘違いによるものだった。
むしろ、最期まで家で私を使っていてくれていたのかもしれない。
そうして知識を与えていた立場から、私は知識を享受する立場になった。
今の私には執筆や謎解き制作、図書館の管理、はたまた料理……
私がここまで個性を出せたのも幸さんが与えてくれた知識が私にとって有益だったからである。
だから私は他の何者でもなく「付喪神 美郷」になれたのだと思う。